section8 『大宰府展示館』

太宰府と大宰府の違い、知ってる!?「大宰府展示館」


8世紀前半の「大宰府政庁」の姿を復元した1/100の大きさの模型
突然ですが、だざいふの「だ」は「太」と「大」のどちらだと思いますか?

・・・。

実は、2つとも正解!
…なのですが、現代では「太」という字を使っています。
この疑問を解決してくれるのが、今回ご紹介する「大宰府展示館」。
「都府楼の杜」から徒歩10分の距離にある資料館です。

今でこそ太宰府といえば菅原道真が頭に浮かびますが、昔々、大宰府という名が世に広く知れ渡るようになったのは、道真の時代から遡ること200年ほど前。
7世紀後半~平安時代初期にかけての頃です。

アクセス的な距離が近いことから福岡は中国や朝鮮と昔から交易が盛んだったのですが、西暦560年頃(推古天皇のお父さんの御代)「人やモノの交流を円滑にするために、九州に役所を設置しよう」と朝廷が那津官家(なのつのみやけ)という役所を現在の福岡市に設置しました。

※那津官家は、現在の福岡市博多区博多駅南にあったという説や、福岡市南区三宅にあったという説があり、定かではありません。

施設では、大宰府史跡の発掘調査によって検出された出土遺物や遺構などを大宰府の歴史や文化もともに紹介

しかし663年、白村江の戦いで百済・倭国(日本)連合軍は唐に敗北。いつか博多湾のそばにある役所・那津官家が攻められるかもしれないと危機感を抱いた朝廷は、役所機能や人、モノすべてを博多湾から離れた場所にある大宰府へ移動。
そこでできたのが、九州の政治外交の中心を担った、地方最大の役所「大宰府」です。
「都府楼“跡”」や「大宰府政庁“跡”」(※言葉は違いますが同じ意味)という名前は、このことに由来します。

古代の役所・大宰府は、7世紀後半~奈良・平安時代にかけて栄えたのですが、いつ役所としての機能を失ったのかは「11世紀後半」としか書物には記されておらず、未だに解明されていません。
いつ役所としての機能を失ったのかは、政庁跡の発掘調査で出てきたものなどから「12世紀前半」頃としか推定されておらず、未だに解明されていません。
なんだかロマンがありますよね。

901年、菅原道真は大宰府へ左遷されたのですが、島流しということを考えると、901年には既に大宰府は華やかさを失っていたのだと推測できます。

ちなみに、50年ほど前までは「大宰府」と「太宰府」が混在していたそうで、そのわかりづらさから遺跡に関しては「大」の文字を使おうということになりました。

「大宰府」=昔の太宰府、という認識でOKだそうです。
教科書では学べなかった歴史の裏側を教えてくれる「大宰府展示館」。
近くには観世音寺や戒壇院、水城跡などがあるので、一緒に巡ってくださいね。

「保存協会がオススメする史跡巡りのモデルコースもありますよ!」とスタッフの田中さん。ボランティアスタッフによる史跡解説案内もあるそうです(2週間前までの要予約)

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「大宰府展示館」
住所/太宰府市観世音寺4-6-1
TEL/092-922-7811(9:00~16:30)
HP/https://www.kotodazaifu.net/pavilion
月曜休(祝日の場合は翌日休)、年末年始
駐車場あり